罪状は白紙、けれど死刑宣告、冤罪にはあらず


「とにかく落ち着こうよ、話を聞くから」
 落ち着いた声色は、確かに響也の知っている成歩堂のものだった。
 普段は揚げ足を取るのが上手で、玩ばれている感覚が否めない相手なのに、本当に弱っている時は、誰よりも優しい男の声。
 縋りそうになって、響也は唇を噛み締める。
胸元にバッジをつけている事は、確かにこの目で確認している。なのに、自分の記憶にある『成歩堂 龍一』は自分と兄の為に資格を失い、ピアニストになっているなどと言えるはずがない。
「嘘、だ。こんな気狂いみたいな話、アンタは信じない。」
 ふっと苦笑する声が耳元を掠めた。より一層強く抱き締められているのだと知り、しかし振り払う事も出来ずに、相手の背広をギュッと握る。
「信じるよ。
 僕は弁護士なんだから、依頼人を信じる事が仕事。ましてや、響也くんを信じない訳がないだろう。」
「ぼくは、検事だから、疑うのが仕事だ…。」
「だから話してごらん。きっと、真実がわかるから。」
 ね? と諭すように言われ、ゆっくりと口を開いた。それでも、自分の奇天烈な話を成歩堂がどんな表情で聞いているかと思えば、とても顔を上げる気にはなれない。耳から入ってくる自分の言葉が、酷く奇妙で話続ける事にすら勇気が必要だった。
 成歩堂は、響也の声が途切れるまで言葉を発する事はなかったが、聞き終えても沈黙は続いた。そのままで静かになってしまった空間は、先程とは逆の圧迫感を響也に感じさせる。
 恐る恐る顔を上げれば、成歩堂は酷く悲しげな表情で眉を寄せていた。
 
「なら…牙琉弁護士は…。」
 
 こんな表情など、響也は見たことが無い。『弁護士』というのだから、兄の事なのだろう。どうしたのかと問うよりも早く、響也のポケットにあった携帯が震えた。
 反射的に取りだして、サブ画面を覗きギョッとする。
其処には『ダイアン』の文字が点滅を続けていた。今、留置場の中にいるはずの男からどうして…。
 緩慢な動作で携帯を開けば、やはり見慣れた番号と名前がある。
 
「…大庵…?」

『なんだよ、その幽霊に逢ったみたいな声は。そりゃ随分と連絡は取ってなかったが、死んでねぇってば。』
「…うん。そう、だね。」
 声が震えた。そうだ。成歩堂がバッチを失っていない世界なのだ。他の人間だって、響也の認識している境遇と違っていたって不思議ではないと自分に言い聞かせる。
「元気…そうじゃないか?」
『まぁ、何もない田舎だからな、暇そのものだぜ。俺もいい加減、駐在所の兄ちゃんが板についたな。』
 懐かしい声で、ハハハと豪快に笑う大庵に胸が詰まる。少なくとも、今の彼は、密輸入を企て殺人を犯したという事ではないようだ。それだけには、胸を撫で下ろす。
『…おい、どうした? お前、本当にガリュウか?』
 響也の対応が変であることに大庵も気付いたようだったが、上手い言い訳も動揺しきっている響也には出来はしない。長年相棒としてつき合って来た相手なのだ、下手な誤魔化しなど意味を持たないだろう。
「う、うん。僕…。」
 どう返事をしたものかと言葉を詰まらせた刹那、響也の携帯は成歩堂に奪われていた。
「やぁ、眉月巡査。」
 堂々とした声で、成歩堂は呼びかけた。大庵の叫び声が、離れていた響也にも聞こえのだから、相当に大きな声だったようだ。

 なんだお前、まだガリュウとつき合ってんのか! つうか、勝手に出てんじゃねぇよ!

「うん。別れる気配は微塵もないし、君に揶揄される覚えもないね。そうじゃなくて、彼は酷く調子が悪くてね。元気になったら掛け直すと思うから、休ませてやってくれないか。」
 その後、二言、三言のやり取りがあり、携帯は響也の手に戻って来た。
「君は体調と相談無しで無理をするから、まずそれを治せだって。」
 成歩堂はにこりと笑って、大庵の伝言を響也に伝えた。「ま、それは同感かな?」
「あ、ありがとう。」
「どういたしまして。説明いるよね? 眉月大庵は恐喝事件を起こし格下げになって地方に飛ばされたんだ。ガリューウェーブが解散して直ぐの事だから、もう五年程前になるのかな? でも、僕は、毎日焼餅を焼いていたから、本当のところは助かった。」
「へ…え。」
 自分の事なのに、全てが人事のようだった。こんな病気ってあるのだろうか。
妄想と現実の区別がつかない…とかいう精神障害の一種かもしれない。自分が認識しているどれが現実で、どれが妄想なのかさっぱりわからないのだけれど。
「大丈夫? 響也くん。」
「う…ん。ちょっと、混乱はしてる…。」
 そうして、矢継ぎ早に質問を繰り返して、現状を把握する。
 七年前の裁判で成歩堂は捏造の疑惑を払拭し、けれども身寄りのないみぬきはそのまま引き取って暮らしていること。そして、今は、王泥喜という新米弁護士を見習いとして預かっていること。
 響也との初公判が切欠で自分と成歩堂は親しい関係になり、そんな事もあって、早々に二足の草鞋に見切りをつけ、今夜は久々のデートの予定だった事を知った。

「…ごめん。なんか変な事になっちゃって…。」
「仕方ないだろう?響也くんが悪い訳じゃ…でも、働きすぎは悪いと思うよ。もっと、ゆったりしてても誰も文句なんて言わないよ?」
 ニコニコと屈託なく笑う成歩堂など、響也は目にしたことがない。
 彼を歪ませる(曰く火の粉を振り払っただけ)事がなければ、成歩堂はこんなにも素直に笑うのだと気付いた途端、響也の顔は強ばる。決して許されない過ちを犯したのだという思いが胸を締め付けた。
 それに成歩堂が気付かないはずがない。
「どうしたの? 悲しそうな顔して」
 ゆるりと頬を撫でられて、否定の為に振ろうとした頭を押し留める。夢か現実かもわからないのだ。虚勢など張っても仕方ない。
「僕の…記憶にあるアンタはいつも少しだけ寂しげに笑うんだ。でも、今のアンタは違ってて…きっと、僕が成歩堂さんから大事なものを奪ってしまったからなんだよね。」


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